●投票率を上げるのは簡単
投票率が上がらないとか、政治への関心が盛り上がらないとかいう話がある。
たしかにそうかもしれない。観念的に、政治への無関心と、当事者意識の希薄さ、そして、主権者としての無責任さがまん延している。「積極的棄権」など愚の骨頂、このような考え方をするものは、観念の中に生きているのに観念的に自殺するようなものだ。自己論駁性に気付いてほしい。
しかし、もっと物理的・実務的な障壁がある。投票場所などの投票方法に関するハードルだ。
台風がきたから前倒し?投票率が下がる?いったいいつの時代の話なのだろう。こんなもの、事前投票期間ももう少し広くとって、駅、学校、コンビニ、郵便局、病院、あらゆるところに投票所を作ればよいし、何より、ネット投票をまじめに考えればよい。
そうはいかない、というところで出てくるのが、対立利益としての「選挙の公正」の確保である。
二重選挙や不正投票、これらの危険があるからこそ、選挙の公正を害される可能性があるため、新しい投票方法や制度を採用するのにハードルが上がる。
成年被後見人に選挙権を認めるかという論点のときも、当事者の意思能力の観点から、選挙権の買収があるのではないかといった批判もあった。
「選挙の公正」という正しそうにみえる看板を掲げながら、本当は投票率が高いと困る人たちがいるのではないか。
●「選挙の公正」という見えない高い壁?選挙権の前提としての生存権?
選挙権を得るためには、選挙人名簿に登録されなければならない。選挙人名簿は住民登録を基礎とし、これは住民基本台帳法によるものである。しかし、住所がない、もっと言えば、居住地がないものは住民登録できず、選挙人名簿に登録されることはないので、選挙権行使の前提を欠く。
このことに対しての訴訟も散見されるし、平成22年度の司法試験の憲法の論文試験でも事例として出題された。法的論点は、「生存と選挙」である。居住が確保されていなければ、そもそもそのことについて「声なき者の声」を民主主義の過程に反映することすらできない。
生活保護法では、「居住地」だけでなく、「現在地」というかなり広範な範囲で保護決定が可能な条文構造となっているが、生存権保障のための居住地確保、この法的運用で、地域によって差異ができることもある。
これについても、住居がはっきりしていないものに選挙権を与えれば、選挙の公正を害する特段の事情があるということで、選挙権付与についてネガティブな判断に傾く。
たしかに、権利保護にはコストがかかる。有限なコストをどのように配分するかというのは、国家にとって重要な問題だが、解散総選挙を恣意的に乱発したり、本当に必要かわからない兵器を高値で買ったり、年金の運用を放棄して投資したり、外国の雇用創出のために大枚はたいたりするのと比較してみれば、権利・自由のコストを理由に制度設計から逃避する理由にはならないのではないだろか。
●「主権者」をどこまで広くとれるか?包摂する熟議民主主義のプロセスを
繰り返し言うが、投票率を上げるが簡単なのに、そのような措置をとることを真にまじめに考えないのは、投票率が上がると困る人たちがいるからである。もっと言えば、現有の既得権益としての議席を保有している多数派が、投票率が上がることが困るからである。
このときに、大儀として立ちはだかるのが「選挙の公正」である。選挙の公正をどのように考えるのか、これも、我々の民主主義のために、新たな議論が必要だし、私の考えでは、選挙関連法は「憲法附属法」に含まれるから、これから行うべき憲法改正議論において、憲法改革の一環として取り上げるべき事項であろう。
結局、これは、自分も含めたどこまでの範囲を我々が「主権者」という同胞として認めていくのか、という問いとも深くつながっている。
より懐の深い民主主義を再興させるためにも、我々一人一人が差異を認めて、異物としての他者との生身の交わりを忌避しないで、多様な声を包摂できる民主主義プロセスを、自分たちの手で作り直そう。
選挙はスタートだ。明日からまた、新しい日本型立憲主義と民主主義の再興について、逃げずに立ち向かおう。